創業者 - 李宗明様

1905-2006

Co-Founder – Mr. Li Tseng Ming李宗明会長は、1905年8月30日に山東省淄川県(今は淄博市という)で生まれました。姉二人と兄一人の四人兄弟でした。子供の時に一家全員で山東省から長春市に移住しました。十六歳の時に学徒の身分で日本国神戸へ留学するチャンスに恵まれ、ゴムの製造技術や車両用内燃エンジンに関する技術を勉強していました。帰国後日本で身に付けた専門技術を生かし、間も無く長春市バス会社に就職し、車に対する専門知識や真面目な仕事振りで好評を獲得し、終にメンテナンス係りの技術者から工場長に抜擢されました。このことから、李宗明会長は、若い時から既にリーダーシップの能力を備えており、その貴重な体験は、その後の長いビジネスの人生に大いに役立ったと思われます。

李宗明会長は、、三十五歳の時(1940年)に長春から瀋陽に移り、瀋陽市でタイヤチューブの製造工場を作りました。車がまだ少ない時代でしたので、市場のニーズを見極めて、タイヤのチューブ以外に、一般のゴム製の靴底も作っていました。そして、日本で習得したゴム製品に関する知識を生かし、単に人の真似をするのではなく、ゴムの原料調合に力を入れ、ゴム製品の開発に励んでいました。そのお陰で市場のニーズに応えられる製品がどんどん作り上げ、初めての成功の喜びを味わい、その後の商売に財力の蓄積もできました。

太平洋戦争の終戦直後に、李宗明会長は、また瀋陽から当時北方地域での貿易センターと称される天津に移り、ゴム製品や布類を扱う問屋を作りました。その間、調達等のために台湾や香港へ行き来することが多かったのです。1949年についに四十四歳の歳で香港へ移住し、永住したのです。御存知のように、当時は中国国内戦争が激しく、天津から香港へ移るために殆どの資産や貨物が失われてしまい、香港に辿り着いた最初の数年間は、非常に苦しい時期でした。前途茫々というべきでしょうか、将来が全く見えない絶望に近い窮境でした。1953年日本へ旅中に、日本が“プラスチック押出し機”の開発に成功したという情報は偶然耳に入りました。当時香港ではアパレル産業や軽工業が盛んになりつつある時期でしたし、香港の投資家がプラスチック押出し機によるポリエチレンバッグ製造のビジネスチャンスに目を向けていく絶好のタイミングでした。李宗明会長は、香港に帰ってから、自分の機械に対する技能と知識を生かし、ポリエチレンバッグ製造と半世紀を渡る付き合いを始めたのです。

1964年に、李宗明会長は、先見の目を以ってビジネスチャンスを掴め、59歳の歳で商売の再開に決断し、機械部品や各種工業用部材を取扱う力生実業公司(力生国際有限公司の前身)を創立しました。御出席の皆様は皆李宗明会長と深いお付き合いのある方ばかりで、李宗明会長のお人柄もよくお分かりだと存じあげますが、相手に対しては、非常に温厚な方で、仕事に対しては非常に勤勉で真面目な方でした。ビジネスに於いては常に市場の動向に目を向け、市場のニーズに応えようとしていたのです。資金の運用面でも非常に穏健でした。創業まもなく、すでにサプライヤーや顧客から好評を得ました。そのお陰で、ビジネスも徐々に拡大し、今日に至ったわけです。

御存知のように、1978年に中国は経済面の改革開放を実施し始めました。七十を超えた高齢にも関らず、豊富なビジネス経験と超人とも言うべき旺盛な精力を以って、その願ってもない中国経済開放の波に乗って、新たにビジネスチャンスを開こうと決心したのです。1982年に日系の製造メーカー訪問団を連れて、天津へ視察しに行きました。中国の法治面での不備が多かったこともあり、すぐには投資に決断できませんでしたが、その十年後1992年に、後継者が終に天津保税区で、製造・物流・貿易・倉庫という機能とライセンスを備えた力生(天津)国際貿易有限公司を設立し、そして、今日の力生グループが中国国内におけるビジネスに大いに貢献しているのです。

李宗明会長の百年も超えた多彩な一生を追想すると、如何なる困難に挫けず、時代の脈を弛まなく掴めビジネスチャンスを開拓しようとする心構えと全身全霊を会社に尽くす精神は、正に我々のよい手本です。こういった精神を力生グループの文化として永遠に残していきたいと存じます。